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風水からみた日本の建築と都づくりの歴史

日本人は中国から風水が伝わる前から風水を使って集落をつくり、暮らしていました。

また、橋は都づくりに重要な役割を果たしてきました。

橋は、道路、地面が下がった谷や濠、河川、湖沼、海峡、湾、運河などを、またいで通行するための構築物です。

風水は約1万4千年前からおよそ1万年続いた縄文時代から根付いていたようです。

青森県の三内丸山遺跡(縄文時代前期から中期)では自然の恵みを受けやすい風水的吉相の土地に大規模集落で定住生活が行われていたことがわかっています。

東日本を中心に発達した馬蹄形状の環状集落(ムラ)

千葉県の加曾利貝塚(国の特別史跡)などのような、貝層の分布が環状や馬蹄形状を呈する縄文時代(1万1500年前 – 3200年前)の貝塚遺跡の多くは、この集落形態を基礎に形成されました。

広場を中心に墓域(土壙墓郡)と居住域(堅穴建物郡や掘立柱建物郡)が同心円状 = 環状に展開する構造を特徴とします。

主に東日本を中心に発達した集落(ムラ)形態の一つです。

環状ないし馬蹄形状の縄文集落遺跡の存在は、1954年の千葉県市川市の堀之内貝塚の発掘調査などが契機となって、この形態の集落が縄文時代社会像を解明する手掛かりとなる遺跡ではないかとして本格的に注目されるようになりました。

関東地方南西部(神奈川県横浜市など)の例では、縄文海進により水産資源の獲れる内湾や汽水域が発達して人口増加が発生し、多くの環状集落の遺跡(遺跡名を「貝塚」と名付けられたものを含む)が出現しました。

中央の広場に土壙墓郡(墓地)が作られ、その周囲を取り囲むように掘立柱建物郡(倉庫等)があり、さらにその周囲に竪穴建物郡(居住域)が配置されました。

他に貯蔵穴郡や、単なるゴミ捨て場ではなく祭祀行為などの特殊な活動を伴って貝殻や土器、灰や焼土などの遺物が集積された場である廃棄帯が伴う場合もあります。

居住域の直径は70m程のものから大型では150m以上を測るものもあります。

重帯構造によって形成された中央広場の墓群や周囲の環状居住域には、環状配置の内部でそれらの遺構分布に偏在域があり、複数の区分に分割できるものがあります。

弥生時代(紀元前300~後300年頃)には、北方位に死者を埋葬して南方位で祭祀をする風水理論に基づいた集落が見つかっています。

古墳時代になると日本独自の風水が出来上がってきました。

難波(なにわ)には古くから倭国王の王宮が営まれていました

古墳時代、仁徳天皇(313年~399年)が最初に難波(なにわ)に宮を置いたとする伝承があります。

324年(仁徳天皇14年)に猪甘津橋(いかいつのはし)に架けられたと、日本書記に記されています。

現在の大阪市にあたる場所にあったと推定され、人工の橋では猪甘津橋が最古とされています。

6世紀後半には、飛鳥寺などを始めとする寺院建築で陽基(生きている人間が使う建物の風水)の風水が本格化しました。

同時に中国、朝鮮からの風水が広がり始めました。

難波京(なにわきょう、なにわのみやこ)

難波京(なにわきょう、なにわのみやこ)は度々遷都により相対する京が転じる中で維持されていました。

2013年には四天王寺から南へ500m地点に想定される難波京の南端において大規模な建物群跡が発見されています。

四天王寺の建物

四天王寺境内案内図

四天王寺の建物は、1945年の空襲で中心伽藍をはじめ重要な建物のほとんどが焼失し、現在の伽藍は1963年頃までに再建されました。

境内の北側に位置する六時礼賛堂、元三大師堂、本坊西通用問、五智光院、方丈は1615年から1623年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

四天王寺西門

西門は鳥居です。

聖徳太子が四天王寺建立に当たり、境内西方の守護神として600年に今宮戎神社が鎮斎されたと伝えられていることと関係がありそうです。

今宮戎神社の門前町は通天閣を中心とした繫華街

今宮戎神社

今宮戎神社は西暦600年推古天皇8年に聖徳太子が四天王寺建立に当たり、同地西方の守護神として鎮斎されたと伝えられています。

今宮戎神社の本殿は南向きに建てられています。

今宮戎神社の門前町

今宮戎神社の門前町(神社の東、南東、南側)は通天閣を中心とした繫華街だったと考えられます。

通天閣本通

通天閣本通は、商店が並んでいる商店街です。

風水では道路は龍脈、商店街は龍脈の上にある土地と考えます。

8世紀始めの奈良の平城京、8世紀末に京都の平安京、12世紀末に鎌倉、17世紀始めに江戸に行政の府を風水で遷して今日の日本が築かれました。

遷都は風水の考えに則り移転場所を決めていた

平城京や平安京の遷都も風水の考えに則り移転場所を決め、災害や疫病の回避、作物の豊穣を祈念していました。

平安京の選定は中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を基に行われたという説があります。

この四神とは北・玄武、東・青龍、西・白虎、南・朱雀の霊獣を言いますが、これを「山」「川」「道」「澤」に当てはめ、それぞれ船岡山、鴨川、山陰道、巨椋池に疑する考えがありますが、現在ではこれを否定する研究者も少なくありません。

特に右京の南方の地では桂川の形作る湿地帯にあたるため宅地化が進みませんでした

平安京は、関東地方を基盤とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての機能も次第に失われていきました。

中世・近世日本の橋

戦国時代の武将たちは、戦略・戦術上重要である築城に必要な土木技術を向上させ、大きな集団を組織・運営する能力もあり、大工を一時的に雇うだけでなく、土木技術を担う職人集団を自ら養成したので、その技術と技術者・作業員の集団が橋の建造にも活かされるようになりました。

織田信長は、軍事・戦略的な意図もありあり、簡易的な橋でしかなかった瀬田の唐橋を本格的な橋に架け替えました。

豊臣秀吉は大阪城の濠に極楽橋を建造しました。

江戸時代に入ると、都市部や街道において橋の整備が進められるようになりました。

江戸時代の大都市には江戸幕府が管理した橋(御入用橋)と町人が管理した橋(町橋)が存在しました。

鎌倉と江戸に共通している点

鎌倉と江戸に共通している点は西、北、東の三方を山に囲まれ、南は海という馬蹄形状立地です。

風水を通して見ると、鎌倉の町も江戸の町も、きちんと馬の蹄のような形の高台の中で、南方向に海へと広がっている所に作っていることがわかります。

皇居

皇居は、明治天皇以降の歴代の天皇のお住まいです。

皇居内には御所を始め、天皇陛下の公務や諸儀式の場である宮殿、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)以来の歴代の皇后が引き継いでいる養蚕のための施設である紅葉山養蚕所、宮内庁庁舎などの建物、庭園として一般に公開されている皇居東御苑があります。

皇居は、17世紀前後に徳川家康が拡大整備した江戸城の主要部分を占めています。

江戸城は、17世紀始めから明治天皇が京都から移りになる明治元年(1868年)までの260年以上の間、歴代の徳川将軍の政務・生活の拠点でした。

皇居には、江戸城時代の濠、土塁、石垣、櫓、門などがあります。

吹上御苑、皇居東御苑、皇居外苑に別れ、吹上御苑には宮殿、御所、吹上大宮御所、宮内庁庁舎があり、皇居東御苑には天守台、書陵部、桃華楽堂、楽部、尚蔵館、窓明館があります。

現代

地理院地図の様々な年代の空中写真を見て、時代とともに変化する地域の様子を知ることができます。

1970年代から現在までの全国の空中写真が公開されています。

一部の地域では1936年の空中写真も閲覧できます。

昔の写真と比較する

同じ場所の異なる年代の写真を並べて表示できます。

場所の移動や拡大・縮小で連動して動きます。

印刷する

画面上で表示範囲を確認しながら、用紙のサイズや縦・横の向きを設定して印刷できます。

現代の橋

地震や台風の多い日本では、地震発生時及び台風通過時の橋の安全性を確保することが重要です。

大きく目立つ橋はその地域のシンボルになりうるため、構造物自体のデザイン性や周囲と調和するデザイン性も重要になります。

現代の橋は実用性だけでなく、デザイン性も求められています。